先日、特別参加させていただいた「西部支部審判委員会・新年会」。
私のようなペーパーレフェリー(笑)ですが、本当に温かく迎え入れていただきました。
昨年の自分の活動の中に
「レフェリーの活動PR」も念頭においていました。
そこから、人の輪がつながり、新しい人脈の開拓と、審判という特殊な組織の中に、一歩足を踏み入れるきっかけにつながりました。
レフェリーとは、孤独で厳しい世界に生きる方々だと思っています。
華やかで脚光を浴びるプレーヤーの裏側で、
レフェリーの努力や苦悩は、なかなかクローブアップされることはありません。
ですが、はじめからレフェリーを目指す人間は、そうはいないと思っています。
必ず、最初のきっかけは「選手」としてサッカーにたずさわっているはずです。
小さい頃から、レフェリーを目指す人なんていませんからね(笑)
将来はプレーヤーを夢見た子供たちが、困難にぶつかり、怪我に苦しみ、
それでもピッチに立ちたい人間たちが、レフェリーとして新しい道を歩んでいるのだと思います。
新年会の中で、今年、上を目指すレフェリーたちが紹介されました。
その中に、高校時代から知る、大塚君もいました。
彼は、紹介された際のあいさつで、こう言いました。
「自分の恩師でもある勝又先生の遺志をついで、立派なレフェリーになりたい」と。
故・勝又光司氏。
勝又先生は、志半ばで闘病の末、数年前に他界した、1級レフェリーです。
勝又先生の病気を知らされた時、私はどうしても信じられませんでした。
数か月前に会ったばかりで、普通に会話して、すごく元気だったのに…。
病気だと聞かされて、わずか4カ月でこの世を去り、何もしてあげる事ができず、ただ泣く事しかできませんでした。
勝又先生は、当時、静岡では数人しかいなかった1級レフェリーで、その中でも経験・人望・年齢ともに熟していた、期待されていた方でした。
ご家族の希望で、お亡くなりになってから1年以上、誰も勝又先生の事を口にする事はありませんでした。
それがかえって、悲しみを誘い、私はつらかった。
みんなが、私には知らせないように…(ごく一部の人しか知らされていなかったらしいので)配慮しているようで、それもつらかった。
でも、亡くなった年の選手権、富士宮北高校のベンチには、勝又先生の遺影がありました。
ひっそりと、見守っておられました。
残念ながら勝つ事はできませんでしたが、選手たちの思いは届いたと思います。
現在は、勝又先生の浜名時代の教え子・頼母木君が、宮北を率いています。
大塚君も頼母木君も、浜名時代はプレーヤーでした。
途中から大塚君はレフェリーへ、
頼母木君は指導者の道へ進みました。
両方とも、勝又先生の進んだ道です。
特に大塚くんは、勝又先生の背中を見て、レフェリーを続けているでしょうから、
その背中に少しでも近づけるよう、そして、追い越せるよう、がんばってほしいものです。
話がそれてしまいましたが……(^^ゞ
現在、静岡県には1級で活躍されているレフェリーが5名いらっしゃいます。もしかして増えてるかもかな??
そして、今年もレフェリーを目指す若者が5名、大学生になります。
サッカーの中では、どうしても陽の目を見ない立場のレフェリーですが、
レフェリーがいなければ、試合が成立しないのも、事実です。
「審判をリスペクトしろ」
昔、静岡学園の監督時代、井田さんも言っていました。
この新年会に参加した、たくさんのレフェリーたち。
リスペクトされるだけの確かな腕と、
選手・観客から絶大な信頼を得られる人望を備えた、
誇り高きレフェリーに、成長してほしいものです。